| 2002年10月 7日 どこまで続くぬかるみぞ |
| 2002年 8月31日 箪笥 |
| 2002年 7月 7日 寂しいということ |
| 2002年 5月30日 母のこと |
| 2002年 4月14日 秩父往還 |
| 2002年 3月10日 3月10日に思うこと |
| 2002年 2月15日 救世?受難? |
| 2002年 1月 1日 あけましておめでとう |
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言葉です、日本語のことです 下記は昨年8月8日、雑感に書いたもの 〜*********〜 おかしい、変だ。 テレビに出ている人達の言葉がひどく気にさわる。 「ら」抜き言葉は・・・・・もうあきらめた。 アクセントなしの発音。 いちいち語尾を上げる物言い。 これらも・・・あきらめよう・・・ だけど、だけど、どうしても我慢できない話言葉は 「・・・・・・じゃないですかぁ〜」というあれ。 「これって、すっごく くやしいじゃないですかあ〜」とかなんとか 形としては いつ頃、誰が言い始めたの? お笑い番組の司会者、若手タレント、などなどなど 一種の流行言葉で若い人の間で流行ってもいづれは廃れていくものと思いきや いつの時代も若者が作り出した言葉があり、それを聞く大人の眉をひそめさせた そういう大人達も多くは若い時に 「若者と大人」、「嫁と姑」と言う関係は過去から現在、そして未来永劫 「嫁と姑」の関係はいざ知らず 若い時にはどうしていようと だけど、現在その川は大人達の方からどんどん崩れ出し埋められ、もはやなくなった。 若い人の真似をする大人 そーゆー大人って かっこわる〜〜い って、この言葉もずっと昔の流行語 (^^) かっこ悪い大人の言う事を若者が聴くはずが無い。 かくして日本は 〜*********〜 訂正したいことがあり拙文を再掲させて頂いた どこを訂正したいか、つーと 「ら」抜き言葉は・・・・・もうあきらめた。 やだ!、やっぱりあきらめない! 日本の言葉が好きだから 耳にして、やだな、汚いな、と感じるそういう自分の気持を大事にしたい 丁寧な言葉が美しいというのではない 歌舞伎の名セリフのべらんめぇだってうつくしい 落語のはっつぁん、くまさんの会話は乱暴でも心地よい 一方、テレビ出演者がよく使う 「この間○○さんとお仕事ご一緒させて頂かせて貰ったんですよぉ〜ぉ〜ぉ〜」 とか 「見せさせていただきました」とか とりあえず丁寧っぽく、尊敬語らしきものつかっておけばいいや。というのは おかしなアクセントにおいては文字で書いても伝わらないけれど NHK お前もか!!状態 あんたんとこは、その砦をくずしたら何のとり得もないんだぞ〜〜 ばかやろぉぉぉぉーーー とテレビにむかって罵ることしばしば。 言葉は常に変化している、とか物知り顔にのたまう人がかならずいるが 大人が若者に迎合し、プロが素人化する。 と、話は逸れたけど、言葉の乱れはこれらの事態と無関係ではないはず。 そこで、突然ですが 樋口一葉が好きです と書くだけでなんだか、ドキドキ落ち着かなくなるくらい好き 初めて「たけくらべ」を読んだのは、中学での授業 さりとは知らぬ母の親はるかに声をかけて、 今でも覚えている、この、ひのしのひというのが それはともかくとして、 以来一葉にぞっこん
一葉全集にしろ、文庫本にしろ、
それでいながら、読む作品は偏ってきまっている 私の場合、作品の内容とか分析、 ただただひたすらに文章、言葉使いが好きなだけ
はーー!!そうなのね、そうなのねぇ〜!
子供といえども、大人の世界に深くかかわって生きていた時代 今の言葉使いが当たり前で何も感じない人に 一葉に惹かれながらも 聖域のような気がして二の足を踏んでいたのだが よそ見をしないで、さっさっさっと歩いていた が、 参考資料 角川書店 近代文学鑑賞講座 清水書院 人と作品 岩波書店 芳賀書店 シリーズ芸術夢紀行
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母が使っていた箪笥を一棹貰ってきた 昭和6年、嫁入りした時の箪笥なので、少なくとも作られてから72年は経っている 長い間、油箪もかけずに使われていたし、あちこち引越しもしたしで 子供の頃、 あの箪笥のうち一棹がうちに来た どこに置こうか? ま、いづれ移すにしても、取りあえず我が家に一間しかない そしたら ぎゃっ!
針箱(低い段の上、左側に置いてある)
昔の人が物を大事にしたのか
今回整理するうちに、ハギレもたくさん出てきたのだが
姪っ子が浴衣を着て多摩川の花火を観に行きたいというので
この浴衣、病気療養中、サナトリウム的だな〜ときた とかいっている間に母の百か日も過ぎ、 5月21日以来、なんだか偏った私事ばかり書いてしまい でも、この箪笥がうちに来て、何だかとてもうれしい そして、うれしいのは私だけではなかったらしい この箪笥の上が今一番のお気に入りになっているミークン
今日で暑かった8月も終わる 2000年8月31日にHPを立ち上げた時は ネットの世界を知って、わずか5ヶ月目くらいだったっけ 今思えば、なんとも無謀な事をしたものだ、無知とは恐ろしい 贔屓くださった皆様、ありがとうございました。 心から御礼申し上げます 2002年8月31日
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人はどういうとき寂しいのだろう 一人でいる時? でも 二人でいても寂しいときもある 大勢でいても一人ぽっちの時もある それは何故? 誰かに、何かに必要とされている時、人は寂しくない。 年老いてくると人はだんだん世の中から必要とされなくなる 母は今年に入ってから寂しい寂しいと言っていた 息子夫婦に孫たちと一緒に暮らしている人が寂しいなんて 何いってるの? 世の中に一人暮しの老人はたくさんいるのに そういう人たちに比べれば、幸せじゃないの だけどそうじゃなかった 親に心配かけるのも親孝行のうちというけれど 母の日にカーネーションを送るより 敬老の日に見舞いに行くより いいかもしれない 今、巷にあふれている おもいやり、やさしさ、そういった言葉、好きじゃない いや、その言葉自体の本来の意味はすばらしいけど、 その使い方が・・・使う人・・・使う社会がね・・ どうも空虚に聞こえてしまう 聴けば聴くほど空しい感が否めない 言葉の中にインチキくさいにおいを嗅ぎ取る時・・・寂しい やさしげな言葉をかけられるより たった一人でもこの世の中に自分の存在を必要としてくれる人がいるならば 人は寂しくない 荒れる子供、きれる子供、群れる若者、 胡散臭い言葉を振りまく大人の本性を見抜いている
母は最期の頃、寂しい寂しいと言っていた 家には大勢家族がいるのに、寂しいと言っていた 亡くなる2日前 母の日に送られたカーネーションがまだ花瓶に活けてあったのを見て 「私は、ほんとはね・・・・こういうものいらないの・・・」と言った 何が欲しかったのか 今、よくわかる 2002年7月7日 七夕の日 明日の49日を前に、本日無事亡き父の隣に納骨いたしました
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平成14年5月21日13時20分、母冨枝がみまかりました いつもは寝ていても起こしておしゃべり 兄が一回人工呼吸をしたら、深く息を吐き・・こときれた うん も すん もなかった。 享年91才 「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」 思はざりしをと、考える暇もなく母は逝ったろう 今年に入ってから人の手を借りないと動作に支障をきたしていたものの 大往生というのだろうか 天寿を全うしたと思うべきかもしれない が・・・ 幾つになっても親を亡くすということは哀しい ただ、ただ、ひたすら哀しい あっという間に、ひと七日が過ぎ、ふた七日が来る 掃除をしていても、炊事をしていても 愚かに、実に愚かに ああもすれば良かった、こうもすれば良かった、 この思いにさいなまれ つくし方に不足があった、自分自身が責められる 母を失った悲しみというより 老いの辛さ、残酷さを味あわせてしまったなという後悔 そして何よりも 世話をする人間の道理ばかりがまかり通ったこと ほんとうは全くその逆であるべきなのに・・・ 誇り高く最後まで毅然としようとしていた母 もっと気を抜かせてあげるべきだった
「自分の母はぜいたくもせず、趣味を楽しむ事もなく愚痴もこぼさずに朝から晩まで家族のために働いた」 というような文章を偉い方の回想録などにみかけるが、 私の母は違った。 贅沢でとにかくおしゃれな人だった。 最後の最後まで夜寝るとき以外寝巻で過ごすという事はなく 人生で一回もズボン、スラックスというものをはいたことがなかった 3月頃洋服を買って持っていったら 「この柄好きだわ」と喜んでくれた。 それとともに、人様に何かを差し上げずにはいられない人でもあった
かねがね母は女手一つで二人の子供を育てた祖母を慕い尊敬していたが 亡くなる2週間位前から特に祖母を懐かしみ 「かあさんに会いたい」と折りあれば口にし 最後の1週間は 「かあさんに会いたい、会いたい」 と言い続け 私が「おばあちゃんの顔見える?出てきた?」と尋ねると 「こんなに呼んでいるのに、かあさんが見えないのよ」と涙を流した 2日前まで 「かあさんが見えない」「かあさんが来ない」といっては涙をこぼしていたのに 死の前日 私が「どうお?おばあちゃんの顔見える?」と聞くと 目をつぶったまま、はっきりと 「来た。かあさんが来た」 「かあさんの顔が見える」 「かあさんが、あたしのこと心配してる」 と 「あたしって、誰のこと?」と聞くと 「とみえのこと」 と言った。 そして 「あたしはかあさんに上げるものが何もないのよ」と 悲しそうに何回も繰り返した これが母と最後の会話であった。
箪笥の一番下の段に 白無垢の着物、紫水晶の数珠、観音経 幼い時に死に別れた自分の父親と姉の写真、 大事に大事に57年間しまってあった祖母から母への手紙 そしてお気に入りの香水 納棺に必要な一揃いが風呂敷に包まれて入っていた。 90才の時、葬式用にと、わざわざホテルオークラで撮った写真も入っていた。 さりながら 祖母に迎えられ手を引かれて逝ったかに思える母、 この母の葬儀にはこの写真が一番ふさわしいのかもしれない。 母の懐に入れた
祖母に抱かれた母・明治44年(1911年)初冬 母は生後8ヶ月くらいであろうか
追記 気がつけば5月ももう終る・・・ 母の死はあまりに個人的なことであり、 ご丁重なる弔電など賜り 諸々お返事など遅れておりますがご容赦下さいますように。 2002年5月30日 古川 阿津子
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2002年4月14日 ここ数年来の念願であった銘仙の里・秩父へ行った。 秩父は古くから養蚕が盛んな土地で必然的に が 江戸時代以来、
秩父銘仙の特徴は、色濃い大柄な植物・花柄文様 秩父オフに着ようと前日まで予定していた縞の銘仙を急遽変更 朝9時に池袋西武線の改札口に集合 一張羅の銘仙を着て それから喜喜として集まり来るねえやたち いざゆかん銘仙のふるさとへ (←ちとおーばー) さて、秩父での どういう意味じゃいという質問 「この格好で家から来たの!?」 地元の人は 「銘仙?!秩父銘仙なの?!!?」 「わーーこういう着物私も持ってる持ってる!」 思わずいいそうになった一言 「ちょうだい!」 でもほんとうは箪笥に眠らせないで着て欲しい うれしかった一言 「こういう銘仙をうちで織ってたんだよ」 本日の金賞受賞の一言 銘仙館にて 「ここの展示を見るより、皆さん方について行きたい」 そして 銘仙館で丁寧に説明して下さった方は 「これは伊勢崎」「これは秩父」と さすが!感動
そう、イベントの集まりなどで 単に着るものとして着ている ちょっとした遠出の外出着として着てくれている 銘仙が大好きだから 銘仙を着たいから だから着ている こういう私達の気持が言わずとも伝わった 行ってよかった 来てよかった。 何かとてもしみじみとした心もちになり さりながら ”銘仙よ再び” となるかというと・・・ そこには暗くて深い谷がある・・・と思うのだった 2002年4月17日 記 追記 秩父銘仙オフ会にご参加のみなさん 又 今回のアップに際しまして下記の方四人が しづさん 136枚の画像 たくさんの画像をありがとうございました。
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「戦中派不戦日記」という本を読んだ 今から57年前に日本への憂情と青春の鬱屈をかかえた一人の医学生が この青年は5才で医者であった父を亡くし、 母を失った少年はやけくそになり、旧制中学5年生の時に停学になったり 暗く、虚無的日々を過ごしていた青年、昨年他界した山田風太郎さんである 情報の伝達、収集は現在に比べればなきに等しいものであったろう 昭和20年3月10日東京は米空軍による大空襲を受けた (以下は山田風太郎「戦中派不戦日記」講談社文庫からの抜粋である) 昭和20年3月10日の分 〜数ぺージとばす〜 茫然とした 何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である 焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の背景をなす しかも、この本郷の惨禍はまだまだ小さい方なのだという。 罹災民は二百万だという。死者も十五万人をくだらないという。 〜数行とぶ〜 風はまだ冷たい季節のはずなのに、むうっとするような熱風が吹いて来る。 自分は歯軋りするような怒りを感じた。 「 こうまでしたか、奴ら!」 と思ったのである。 昨晩目黒で、この下町の炎の上を悠々と旋回しては、 おそらくきゃつらは、この下界に住んでいる者を人間仲間とは認めない、 さらばわれわれもまたアメリカ人を幾十万殺戮しようと、もとより当然以上である。 〜数行飛ぶ〜 焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた 自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。 数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。 それでも彼女は生きている。 3月11日 ○下谷の加藤さんも焼け出され、今日来る。その話。 加藤さんたちは火と戦っていた。 空地には、何万人という避難民がのたうち回って、火の海の熱気に泣き叫んでいた。 加藤さんたちはたまらなくなって逃げ出した 黒焦げになった屍体が、いたるところに夏の日のトカゲみたいに転がっていた。 火の潮に追われて、人々は隅田川へ飛び込んだ。
3月10日午前零時15分に空襲警報が発令されてから 死者10万人・焼失家屋約30万戸・罹災者100万人以上 生き残った子どもたちも哀れであった 故林家三平師匠夫人海老名香葉子はまさにこれで 私の家のお向かいに住む老婦人 運命の3月9日 家に火がついた時、まずはとにかく消さなければいけないと必死に消火を 何時間かして、川から這い上がった彼女は濡れ鼠
わずか2時間ほどの間に10万人の人が焼き殺された なんとおぞましく、すさまじい数字であろうか 非戦闘員である
この爆撃隊司令官であるカーチス・E・ルメイ将軍はその回想記に 私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊したのだ。 東京を爆撃せよー作戦任務報告書は語るー 三省堂選書 奥住 喜重 ・ 早乙女 勝元 より上記抜粋 東京大空襲の本当の標的は何だったか? それは工業的および戦略的な諸目標を破壊する事ではなく この本の最後に 早乙女勝元
2001年9月11日 夜 リアルタイムで放映されたテレビの映像に釘付けになった その時、アメリカは朝だった イスラム過激派にハイジャックされたといわれる そして第3機がワシントンの国防総省に激突した これがアメリカ人にはパールハーバーとに見えたらしい アメリカにとって、自分の国土を攻撃された事が それに対する報復が日本本土への空襲であり、 大衆に対する訴えの巧みな者が国の進路を決定するという国アメリカ 多くは口ではひどいひどいといいながら 2001年3月10日 雑感 参考書籍 2002年3月10日 午前零時 記
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古いきものです。 子供の頃 にもかかわらず それが銘仙であり、お召であった 着たいと思っても、欲しいと願っても 着たいと云えば 大人になって、いつしか着物を着ない生活ウン十年 今や、古着屋さんでも、骨董市でも、オークションでも 銘仙ばかりでなく、戦前の母や伯母、 でも、余計な事ながら、気になる事がある 骨董市や古着屋で買った着物 古着屋さんなどで試着する時に どうせ、2千円、3千円で買ったものだから・・・ そんな気持がどこかにあるかも 今ほど自由に好きな着物が着られる時代ってあっただろうか。 かつて、日本人が着物だけで暮らしている時代はもとより 着物好きにとって、今ほど良い時代はない 昭和30年後半から この着物を着なかった親の世代を乗り越えて、 とても不思議 何が彼等を動かしたのか 若い人が親の制約を受けずに行動できる時代のせいか 楽だから着る 一時代、空白期間があったこと そう、 いけいけどんどんとしてきた事が 戦後50年で失ってしまったものを考える時 着物はどうだろう 一つの流行は他の何かを追いやる お召は一時期大流行したらしいのだが 今、古着、昔着物が流行といわれている 50年、60年後に吉と出るのか凶となるのか いつの世でも 一方呉服業界が売らんが為に 2002/2/15 新年明けましておめでとうございます。 しかしながら、「うきうききもの」におきましては このサイトを開設しましてから ホームページ立ち上げの動機もつい忘れて そこで、昨年2001年元旦に書きました雑感を |