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雑感・2002年

2002年10月 7日  どこまで続くぬかるみぞ
2002年 8月31日  箪笥
2002年 7月 7日  寂しいということ
2002年 5月30日  母のこと
2002年 4月14日  秩父往還
2002年 3月10日  3月10日に思うこと
2002年 2月15日  救世?受難?
2002年 1月 1日  あけましておめでとう

 

どこまで続くぬかるみぞ

言葉です、日本語のことです

下記は昨年8月8日、雑感に書いたもの

〜*********〜

おかしい、変だ。

テレビに出ている人達の言葉がひどく気にさわる。

「ら」抜き言葉は・・・・・もうあきらめた。

アクセントなしの発音。
あるいは、アクセントの付け違い

いちいち語尾を上げる物言い。

これらも・・・あきらめよう・・・

だけど、だけど、どうしても我慢できない話言葉は

「・・・・・・じゃないですかぁ〜」というあれ。

「これって、すっごく くやしいじゃないですかあ〜」とかなんとか

形としては
疑問形なのだが、尋ねているわけではなく、
むしろ逆に相手も絶対にそう思っているという押し付けがましさがいやだ

いつ頃、誰が言い始めたの?

お笑い番組の司会者、若手タレント、などなどなど

一種の流行言葉で若い人の間で流行ってもいづれは廃れていくものと思いきや
さーーにあらず、さにあらず

これが今や広く一般にしみわたりすでに、40代、50代の所謂大人世代での
日常の生活、会話の中でかなり使われている

いつの時代も若者が作り出した言葉があり、それを聞く大人の眉をひそめさせた

そういう大人達も多くは若い時に
同じような事をして、同じような事を云われていた

「若者と大人」、「嫁と姑」と言う関係は過去から現在、そして未来永劫
永遠のテーマと思っていたのだが、そうではなかったらしい

「嫁と姑」の関係はいざ知らず
「若者と大人」の軋轢、しのぎ合いはなくなり

大人が若者に迎合する時代の到来。

若い時にはどうしていようと
ある時期が来ると、いやでも渡らなければならない川がかつてはあった。

だけど、現在その川は大人達の方からどんどん崩れ出し埋められ、もはやなくなった。

若い人の真似をする大人
若い人にだか、より多くの者にだか、体制にだか何だか解らないけど媚びている大人

そーゆー大人って

かっこわる〜〜い

って、この言葉もずっと昔の流行語 (^^)

かっこ悪い大人の言う事を若者が聴くはずが無い。

かくして日本は
幼稚化、幼児化へ坂道を転がるように進むのであろうか

〜*********〜

訂正したいことがあり拙文を再掲させて頂いた

どこを訂正したいか、つーと

「ら」抜き言葉は・・・・・もうあきらめた。
アクセントなしの発音。あるいは、アクセントの付け違いいちいち語尾を上げる物言い。
これらも・・・あきらめよう・・・

やだ!、やっぱりあきらめない!

日本の言葉が好きだから

耳にして、やだな、汚いな、と感じるそういう自分の気持を大事にしたい

丁寧な言葉が美しいというのではない

歌舞伎の名セリフのべらんめぇだってうつくしい

落語のはっつぁん、くまさんの会話は乱暴でも心地よい

一方、テレビ出演者がよく使う

「この間○○さんとお仕事ご一緒させて頂かせて貰ったんですよぉ〜ぉ〜ぉ〜」

とか

「見せさせていただきました」とか

とりあえず丁寧っぽく、尊敬語らしきものつかっておけばいいや。というのは
なんだかとても卑しい感じがする

おかしなアクセントにおいては文字で書いても伝わらないけれど

NHK お前もか!!状態

あんたんとこは、その砦をくずしたら何のとり得もないんだぞ〜〜

ばかやろぉぉぉぉーーー

とテレビにむかって罵ることしばしば。

言葉は常に変化している、とか物知り顔にのたまう人がかならずいるが
そうお?所詮、低きに流れているだけでしょ?

大人が若者に迎合し、プロが素人化する。
親が我が子を溺愛し、親が我が子を虐待する。
溺愛と虐待は紙一重。

と、話は逸れたけど、言葉の乱れはこれらの事態と無関係ではないはず。

そこで、突然ですが

樋口一葉が好きです

と書くだけでなんだか、ドキドキ落ち着かなくなるくらい好き

初めて「たけくらべ」を読んだのは、中学での授業
多分抜粋された文章であったと思うが、私が読まされた個所に

さりとは知らぬ母の親はるかに声をかけて、
ひのしのひがおこりましたぞえ、此の美登利さんは何を遊んで居る、
雨の降るに表へ出ての悪戯は成りませぬ

今でも覚えている、この、ひのしのひというのが
何なのかわからず、どこで切って読んだらいいのか
頭の中が????状態になった

それはともかくとして、
意味はわからないながら、美しい言葉、美しい文章に完全に参ってしまった

以来一葉にぞっこん
「たけくらべ」の背景、美登利の髪形、衣裳にもあこがれ

お正月に
待望の日本髪を
結った

気分はすっかり
美登利になって
いる

やはり、わたくし
この時分から
変だったのね

昭和41年(1966年)
学生だったころ、
神田の古本屋で見つけた
昭和29年初版
昭和35年七版出版の全集

欲しかったけれど
学生の身分にはためらわれる
金額

たしか、数ヶ月迷って、何度も足を運び
清水の舞台から・・・の心境で
購入した

金2万7千円也

一葉全集にしろ、文庫本にしろ、
納められている作品は同じなのに、新たに出版されると欲しくなる

それでいながら、読む作品は偏ってきまっている
「にごりえ」「大つもごり」「十三夜」「たけくらべ」
それに日記

私の場合、作品の内容とか分析、
あるいは一葉が実際はああだったのではこうだったのでは
などという事は一切興味なし

ただただひたすらに文章、言葉使いが好きなだけ

購入したなかで、一番新しい本がこれで、2000年9月初版発行
2002年10月購入

この本の解説で中野翠が
「私は一葉が好きだが、ただもう楽しんでいるだけで研究的情熱はとぼしい」

きゃーーびっくり!
これこれ、まさにこれです、私も

そしてこうも言ってくれてます

「言葉、言葉、言葉だ。何といっても文章がすばらしい。」

そして、極め付きのこの言葉

「一葉の小説を読んでいて気持がいいのは、登場人物たちが
(教育のない貧乏人といえども)敬語をきちんと使いこなしていることだ。

卑屈になっての敬語というより他人との間につねに適正な距離を保つというところから
発達したとおぼしき敬語つかい。

悪態と敬語の両方が発達しているのが都会文化というものだろう。」

はーー!!そうなのね、そうなのねぇ〜!

気取って表紙など
つけてしまった

どうも、中身が
薄いので
外側だけでも
と思ったらしい

表題の
「樋口一葉」は
筆で父に書いて
貰ったのを
思い出した
久しぶりに父の
筆跡を見る

学生の時一人好きな作家を選んで論文というほどではないけれど提出する事があり
私は迷わずに樋口一葉にした。しかし、すぐに一葉を選んだのは失敗だったと思った

作品の分析、解説やら、一葉自身についての詮索をしたくないのだ、という事に
このとき気づいた。

ただただ読んでいたいだけなのだ
ただただ一葉の言葉の世界にうっとりとなっていたいだけなのだ

「たけくらべ」最後のくだり

「龍華寺の真如が我が宗の修行の庭にたち出づるうわさをも
美登利は絶えて聞かざりき、
有りし意地をば其のままに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我を我とも
思はれず、唯何事もはずかしうのみ有りけるに、ある霜の朝水仙の作り花を格子門の
外よりさし入れ置きし者の有りけり、誰れの仕業と知るよしなけれど、
美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて
違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、
きくとはもなしに伝へ聞く其の明けの日は
真如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」

この一節に胸がつまった。

子供といえども、大人の世界に深くかかわって生きていた時代
そして、いづれ否も応もなく好むと好まざるに関らず
生きるために皆大人の世界に入っていった

今の言葉使いが当たり前で何も感じない人に
どうのこうの言うつもりは毛頭ない
ただ、そういう言葉、発音、アクセントを耳にした時、
ん?え?と、ちょっとでも引っ掛かるものがある方は
その気持を信じて、大事にして欲しいと思う

一葉に惹かれながらも
そのゆかりの場所へ行く機会も度胸もなかった

聖域のような気がして二の足を踏んでいたのだが
ネットで見ると結構みんな行ってるじゃん
な、なんだよ〜
2年前、思い切って行ってみたのをきっかけに
時々通りすがりのようなふりをして歩いてみる

よそ見をしないで、さっさっさっと歩いていた

が、

今回初めて写真を撮ってみた

参考資料
筑摩書房 昭和29年初版
「一葉全集」全7巻
付録 月報第1号〜7号

角川書店 近代文学鑑賞講座
「樋口一葉」 

清水書院 人と作品
福田 清人「樋口一葉」

岩波書店
樋口一葉「にごりえ たけくらべ」

芳賀書店 シリーズ芸術夢紀行
「たけくらべ」アルバム

 

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箪笥

母が使っていた箪笥を一棹貰ってきた

昭和6年、嫁入りした時の箪笥なので、少なくとも作られてから72年は経っている

長い間、油箪もかけずに使われていたし、あちこち引越しもしたしで
すっかりこげ茶色になって、桐の面影は微塵も無い正真正銘の古箪笥

子供の頃、
母の箪笥の中って宝物がいっぱい詰まっているような気がしていた
一番上の小さい引き戸になっているところ、背伸びしてあけて
箱せことか、ビラビラの銀の簪とか出して
内緒でお姫様ごっこに使っていた

あの箪笥のうち一棹がうちに来た

どこに置こうか?

ま、いづれ移すにしても、取りあえず我が家に一間しかない
客間兼居間兼書斎(台所以外この部屋しか一階にはない)に
一緒に連れてきた整理箪笥の隣、二段に分けて置いた

そしたら

ぎゃっ!

ここに長火鉢でもおいたら
深川江戸資料館にあった、
貧乏長屋そっくり。

箪笥の上の物は
一緒に貰ってきた物で
針箱、文箱、硯箱。

針箱(低い段の上、左側に置いてある)

桑で出来たこの針箱は
母の嫁入り道具だったもので、
まさに座右の物、
いつも母の座っている
右に置いてあり 
引き出しの中は
お気に入りの店の包装紙が
ひかれてあった

昔の人が物を大事にしたのか
昔の物がしっかりと出来ていたのか
同じく71年間愛用していた二尺差し(↓左はし)

裏には祖母の筆書きで

昭和六年 三月吉日

西行の麻の衣を裁つ時は
月をも日をもきらわざりけり(推測)

と記してある。。。。らしい。

というのも
祖母の筆跡は薄くなって、ほとんど判読できない
母から聞き取っていたうろ覚えを書いたので
正確な和歌をご存知な方がいらしたら、教えてください

日常に着物だけを着て生活していた時代でも
反物を裁つという事、鋏を入れるという事
それが例え普段着や浴衣、襦袢の類でも
必ず吉日を選んで裁ったり、夜は決して裁たないとか
あれや、これや、縁起をかついだらしい
それだけ、反物って貴重なもの
大事に大事に心をこめて扱われた

それでも、諸事情から細かい事を言っていられない場合もある
差し迫れば、時には掟破りも・・・

そんな時にこの和歌を二度唱えてから
布裁ちをしたという

 

今回整理するうちに、ハギレもたくさん出てきたのだが
その中にこんな柄のハギレが

伯母が娘時代に着て
その後頂いて、姉達が
着ていた着物のハギレ
この着物は二番目の姉が嫁入りの際、布団になった。

そして、このはぎれ、→
これと同じ柄の羽織を京都の古着屋さんで発見し、思わず購入

などなど、手が止まることが多く、片付けが進まない。

 

姪っ子が浴衣を着て多摩川の花火を観に行きたいというので
箪笥に入っていたおばあちゃんの浴衣を着せようとしたら

  

この浴衣、病気療養中、サナトリウム的だな〜ときた
うーーん、そうかも

とかいっている間に母の百か日も過ぎ、
この浴衣の出番は来年までない

5月21日以来、なんだか偏った私事ばかり書いてしまい
雑感を読んで下さる方にはうざったかったかも

でも、この箪笥がうちに来て、何だかとてもうれしい

そして、うれしいのは私だけではなかったらしい

   

この箪笥の上が今一番のお気に入りになっているミークン

 

 

今日で暑かった8月も終わる

2000年8月31日にHPを立ち上げた時は

ネットの世界を知って、わずか5ヶ月目くらいだったっけ

今思えば、なんとも無謀な事をしたものだ無知とは恐ろしい

贔屓くださった皆様、ありがとうございました。

心から御礼申し上げます

2002年8月31日

 

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寂しいということ

人はどういうとき寂しいのだろう

一人でいる時?

でも

二人でいても寂しいときもある

大勢でいても一人ぽっちの時もある

それは何故?

誰かに、何かに必要とされている時、人は寂しくない。

年老いてくると人はだんだん世の中から必要とされなくなる

母は今年に入ってから寂しい寂しいと言っていた

息子夫婦に孫たちと一緒に暮らしている人が寂しいなんて

何いってるの?

世の中に一人暮しの老人はたくさんいるのに

そういう人たちに比べれば、幸せじゃないの

だけどそうじゃなかった

親に心配かけるのも親孝行のうちというけれど

母の日にカーネーションを送るより

敬老の日に見舞いに行くより

いいかもしれない

今、巷にあふれている

おもいやり、やさしさ、そういった言葉、好きじゃない

いや、その言葉自体の本来の意味はすばらしいけど、

その使い方が・・・使う人・・・使う社会がね・・

どうも空虚に聞こえてしまう

聴けば聴くほど空しい感が否めない

言葉の中にインチキくさいにおいを嗅ぎ取る時・・・寂しい

やさしげな言葉をかけられるより

たった一人でもこの世の中に自分の存在を必要としてくれる人がいるならば

人は寂しくない

荒れる子供、きれる子供、群れる若者、

胡散臭い言葉を振りまく大人の本性を見抜いている

母は最期の頃、寂しい寂しいと言っていた

家には大勢家族がいるのに、寂しいと言っていた

亡くなる2日前

母の日に送られたカーネーションがまだ花瓶に活けてあったのを見て

「私は、ほんとはね・・・・こういうものいらないの・・・」と言った

何が欲しかったのか

今、よくわかる

2002年7月7日 七夕の日

明日の49日を前に、本日無事亡き父の隣に納骨いたしました

 

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母のこと

平成14年5月21日13時20分、母冨枝がみまかりました

その日
夜出かける予定があった私は仕事の合間昼休みにちょっと様子を見に兄の家に・・・それが12時30分。
母は静かに寝ていた

いつもは寝ていても起こしておしゃべり
でも前の晩にたっぷり話をしたのでその時に限って声をかけずに・・・

ちょっと母の寝顔から目を離して兄や姉と話をしていたほんの数分、2分か3分
目を戻したら母の呼吸は止まっていた

兄が一回人工呼吸をしたら、深く息を吐き・・こときれた

うん も すん もなかった。

享年91才

 「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

思はざりしをと、考える暇もなく母は逝ったろう

今年に入ってから人の手を借りないと動作に支障をきたしていたものの
耳も良く、目も良く、意識もしっかりしていた

大往生というのだろうか

天寿を全うしたと思うべきかもしれない

が・・・

幾つになっても親を亡くすということは哀しい

ただ、ただ、ひたすら哀しい

あっという間に、ひと七日が過ぎ、ふた七日が来る

掃除をしていても、炊事をしていても
道を歩いていても、電車に乗っていても
突然涙があふれ、止まらなくなる

愚かに、実に愚かに

ああもすれば良かった、こうもすれば良かった、

この思いにさいなまれ

「墓に布団は着せられず」 という陳腐な言葉までが身を刺す

つくし方に不足があった、自分自身が責められる

母を失った悲しみというより

老いの辛さ、残酷さを味あわせてしまったなという後悔

そして何よりも

世話をする人間の道理ばかりがまかり通ったこと

ほんとうは全くその逆であるべきなのに・・・

誇り高く最後まで毅然としようとしていた母

もっと気を抜かせてあげるべきだった

「自分の母はぜいたくもせず、趣味を楽しむ事もなく愚痴もこぼさずに朝から晩まで家族のために働いた」

というような文章を偉い方の回想録などにみかけるが、

私の母は違った。

贅沢でとにかくおしゃれな人だった。

最後の最後まで夜寝るとき以外寝巻で過ごすという事はなく

人生で一回もズボン、スラックスというものをはいたことがなかった

3月頃洋服を買って持っていったら

「この柄好きだわ」と喜んでくれた。

それとともに、人様に何かを差し上げずにはいられない人でもあった

かねがね母は女手一つで二人の子供を育てた祖母を慕い尊敬していたが

亡くなる2週間位前から特に祖母を懐かしみ

「かあさんに会いたい」と折りあれば口にし

最後の1週間は 「かあさんに会いたい、会いたい」 と言い続け

私が「おばあちゃんの顔見える?出てきた?」と尋ねると

「こんなに呼んでいるのに、かあさんが見えないのよ」と涙を流した

2日前まで 「かあさんが見えない」「かあさんが来ない」といっては涙をこぼしていたのに

死の前日

私が「どうお?おばあちゃんの顔見える?」と聞くと

目をつぶったまま、はっきりと

「来た。かあさんが来た」 「かあさんの顔が見える」

「かあさんが、あたしのこと心配してる」 と

「あたしって、誰のこと?」と聞くと

「とみえのこと」 と言った。

そして

「あたしはかあさんに上げるものが何もないのよ」と

悲しそうに何回も繰り返した

これが母と最後の会話であった。

箪笥の一番下の段に

白無垢の着物、紫水晶の数珠、観音経

幼い時に死に別れた自分の父親と姉の写真、

大事に大事に57年間しまってあった祖母から母への手紙

そしてお気に入りの香水

納棺に必要な一揃いが風呂敷に包まれて入っていた。

90才の時、葬式用にと、わざわざホテルオークラで撮った写真も入っていた。

さりながら

祖母に迎えられ手を引かれて逝ったかに思える母、

この母の葬儀にはこの写真が一番ふさわしいのかもしれない。

母の懐に入れた

祖母に抱かれた母・明治44年(1911年)初冬

母は生後8ヶ月くらいであろうか

追記

気がつけば5月ももう終る・・・

母の死はあまりに個人的なことであり、
お知らせすべきかどうか迷ったけれど、
事情をご存知の方、ご存知ない方と話が食い違っても
かえって失礼かと思い、ここに記した。

ご丁重なる弔電など賜り
ありがたく拝読、感謝しております。

諸々お返事など遅れておりますがご容赦下さいますように。

2002年5月30日

古川 阿津子

 

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秩父往還

2002年4月14日

ここ数年来の念願であった銘仙の里・秩父へ行った。

秩父は古くから養蚕が盛んな土地で必然的に
絹織物も名産のひとつになっていったのである

江戸時代以来、
今に至っても秩父札所三十四ヶ所巡りをする人や
秩父の夜祭を知る人は多いが
秩父が絹で栄え、
秩父銘仙で一世を風靡したという事は
ゆめ・まぼろしの如くかき消されてしまった感がある

古着屋さんで売っている銘仙の多くはこの里から
絹を運ぶ道として賑わった秩父往還を辿り、峠を越えて
あの町この町に出てきたのだ

秩父銘仙の特徴は、色濃い大柄な植物・花柄文様
 そして銘仙の最大の特徴である玉虫織りだと考え

秩父オフに着ようと前日まで予定していた縞の銘仙を急遽変更
大柄で派手な銘仙を着てゆくことにした

朝9時に池袋西武線の改札口に集合

一張羅の銘仙を着て
久々に宿さがりするねえやの心境はかくやとばかり
1時間も早く集合場所に着いてしまった。

それから喜喜として集まり来るねえやたち

いざゆかん銘仙のふるさとへ (←ちとおーばー)

さて、秩父での
総勢13名そのうち銘仙着用者11名に対する反応は?

どういう意味じゃいという質問

この格好で家から来たの!?」

地元の人は

「銘仙?!秩父銘仙なの?!!?」
「銘仙だ銘仙だ!」

「わーーこういう着物私も持ってる持ってる!」
「これとおんなじ銘仙うちの箪笥に入ってるよ」

思わずいいそうになった一言

「ちょうだい!」

でもほんとうは箪笥に眠らせないで着て欲しい

うれしかった一言

「こういう銘仙をうちで織ってたんだよ」
「こうして着てくれてるなんてうれしいねえ〜」

本日の金賞受賞の一言

銘仙館にて

「ここの展示を見るより、皆さん方について行きたい」

そして

銘仙館で丁寧に説明して下さった方は
秩父に古くから伝わる秩父銘仙の織物工場
「寺内織物」の寺内さん?

「これは伊勢崎」「これは秩父」と
私達の着物の出どこをいわれた

さすが!感動


帰り間際に秩父神社で話し掛けて下さった地元の皆さんは
かつて銘仙に携わっていた方達だけに、
「銘仙を着てくれているのか!」
という驚き、喜び、感激がこちらにも伝わり
なにやらお互いに共振しあって、別れがたく胸つまる思いが・・・

そう、イベントの集まりなどで
「銘仙を着ましょう〜!」的に着ているのではなく

単に着るものとして着ている

ちょっとした遠出の外出着として着てくれている

銘仙が大好きだから

銘仙を着たいから

だから着ている

こういう私達の気持が言わずとも伝わった

行ってよかった 来てよかった。

何かとてもしみじみとした心もちになり
後ろ髪引かれながら帰途に・・・又いつか・・

さりながら

”銘仙よ再び” となるかというと・・・

そこには暗くて深い谷がある・・・と思うのだった

2002年4月17日 記

追記

秩父銘仙オフ会にご参加のみなさん
遠いところまでお付き合い下さって感謝しております。
一人で行くより
数倍、数十倍、数百倍、楽しい思いをさせて頂きました。

今回のアップに際しまして下記の方四人が
画像を提供して下さいました

しづさん  136枚の画像
からくささん 19枚の画像
あんずさん 10枚の画像
桂ちゃん  13枚の写真

たくさんの画像をありがとうございました。

秩父銘仙オフ会の画像です

 

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3月10日に思う事

「戦中派不戦日記」という本を読んだ

今から57年前に日本への憂情と青春の鬱屈をかかえた一人の医学生が
人に見せる為でも、読ませる為でもなく、単に日記として書き記したものある。

この青年は5才で医者であった父を亡くし、
父の弟と再婚した母を中学1年で失っている

母を失った少年はやけくそになり、旧制中学5年生の時に停学になったり
すでに太平洋戦争が勃発した翌年の昭和17年にはついに家出をして東京へ

暗く、虚無的日々を過ごしていた青年、昨年他界した山田風太郎さんである

傍観者として生きていた山田風太郎青年が動乱と混乱の
昭和20年一年間を克明に記録した日記である

情報の伝達、収集は現在に比べればなきに等しいものであったろう

昭和20年3月10日東京は米空軍による大空襲を受けた

(以下は山田風太郎「戦中派不戦日記」講談社文庫からの抜粋である)

昭和20年3月10日の分

〜数ぺージとばす〜

茫然とした 何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である

焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の背景をなす
「物」の姿が、ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつつ
横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。
色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、又赤い余炎となり
ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が
道灌以前の地形をありありと描いて、広茫たる廃墟の凄惨さを
浮き上がらせている。電柱はなお赤い炎となり、樹々は黒い杭となり
崩れ落ちた黒い柱の間からガス管がポッポッと青い火を飛ばし
水道は水を吹き上げ、そして、形容しがたい茫漠感をひろげている風景を
縦に、横に、斜め、上に、下に、曲がりくねり、うねり去り、ぶら下がり
乱れ伏している黒い電線の曲線。黄色い煙は、砂塵か、灰か、
或いはほんものの煙か、地平線を霞めて
その中を幻影のようにのろのろと歩き、佇み、座り、
茫然としている罹災人の影が見える。
この一夜、目黒の町まで夕焼けのように染まったことがはじめて肯けた。

しかも、この本郷の惨禍はまだまだ小さい方なのだという。
日比谷はまだひどい。浅草はさらにひどい。本所深川は何とも形容を絶しているという。
浅草の観音様も焼けてしまった。国際劇場も焼けてしまった。上野松坂屋も焼けてしまった。
九段の偕行社も神田明神も本所の精巧社も 宮城の一角さえも焔の中に包まれたのである。

罹災民は二百万だという。死者も十五万人をくだらないという。
ああ、あの溶鉱炉の中でどのような阿鼻叫喚が演ぜられたことであろう。

〜数行とぶ〜

風はまだ冷たい季節のはずなのに、むうっとするような熱風が吹いて来る。
黄色い硫黄のような毒煙のたちゆらめく空に  碧い深い空に、ひょうひょうと風がうなって、
まだ、火のついた布や紙片がひらひらと飛んでいる。

自分は歯軋りするような怒りを感じた。

「 こうまでしたか、奴ら!」

と思ったのである。

昨晩目黒で、この下町の炎の上を悠々と旋回しては、
雨のように焼夷弾をまいているB29の姿を自分は見ていた。

おそらくきゃつらは、この下界に住んでいる者を人間仲間とは認めない、
小さな黄色い猿の群とでも考えているのであろう。
勿論戦争である。敵の無差別攻撃を天人ともに許さざるとか何とか
野暮な恨みはのばはしない。敵としては日本人を何万人殺戮しようと、それは極めて当然である。

さらばわれわれもまたアメリカ人を幾十万殺戮しようと、もとより当然以上である。

〜数行飛ぶ〜

焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた
風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。
その時、女の一人がふと蒼空を仰いで
「ねえ・・・・また、きっといいこともあるよ。・・・・」と呟いたのが聞こえた。

自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。

数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。
子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。
あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。

それでも彼女は生きている。
またきっといいことがあると、もう信じようとしている。
人間は生きてゆく
命の耐えるまで、望みの灯を見つめている。
・・・・・この細々とした女の声は、人間なるものの「人間の賛歌」であった。

3月11日

○下谷の加藤さんも焼け出され、今日来る。その話。

加藤さんたちは火と戦っていた。
消防隊の人々は炎の方へホースをむけたまま、全員生不動のように燃えていたという。
血の色に染まった往来を、背から炎をあげながら老人が駆けてきた。
髪も燃えていた。鬚も燃えていた。加藤さんたちの見ている前で
彼はひっくり返って、火鼠みたいに燃えてしまった。
それで加藤さんたちも逃げ出した。

空地には、何万人という避難民がのたうち回って、火の海の熱気に泣き叫んでいた。
水はどこにもなかった。
運び出してきた荷物に火がついて、そばの人に移った。
人々はその人をつかまえて、炎の中へつきとばした。
そうせずにはいられなかった。

加藤さんたちはたまらなくなって逃げ出した
炎の中をつっ切って、上野の山へ逃げ上がった。

黒焦げになった屍体が、いたるところに夏の日のトカゲみたいに転がっていた。
真っ黒に焼けた母親の体の下で、赤ん坊も真っ黒に焼けていた。
加藤さんたちは、なんどもそれらの屍体につまずいたり、踏んだり、転んだりした。

火の潮に追われて、人々は隅田川へ飛び込んだ。
しかし隅田川も燃えていた。
吹きつける火の雨に船は焼け、水は煮えていた。
無数の人々がそこでも死んだ。屍体は今なおマグロのように無数に浮かんでいるという。

3月10日午前零時15分に空襲警報が発令されてから
解除された2時37分までの2時間22分、わずか142分の間に

死者10万人・焼失家屋約30万戸・罹災者100万人以上
そのほとんどが、銃後の守りについていた母親や娘達
年寄りや、いたいけない子どもたちであったのだ

生き残った子どもたちも哀れであった
当時小学生は親元をはなれ、学童疎開をしていた
遠く離れた地で親の死を知らされた

故林家三平師匠夫人海老名香葉子はまさにこれで
ご自分は疎開していた為に助かったものの
祖父母、両親、兄弟、身内18人をこの空襲で亡くされた。

私の家のお向かいに住む老婦人
1918年大正7年生まれの84才
たった一人で暮らしている

運命の3月9日
寒い日で、午後から強い風が吹き始め、
台東区今戸2丁目の自宅で一家5人は不安な夜を過ごしていた

家に火がついた時、まずはとにかく消さなければいけないと必死に消火を
しかし手に負えるわけもなく、すでにその時点で家族はバラバラ
彼女は安昌寺より少し桜橋よりのところで隅田川に飛び込んだ

何時間かして、川から這い上がった彼女は濡れ鼠
しかしそれも一瞬にして乾いてしまう熱気であったという
着の身着のまま、まさに着たきり雀
家は跡形もなく、そして4人の家族は2度と帰ってこなかった

この夜の空襲は通常火薬による短時間の被害としては史上空前のもので
後の広島、長崎に投下された原子爆弾に匹敵するものであった

わずか2時間ほどの間に10万人の人が焼き殺された

なんとおぞましく、すさまじい数字であろうか
しかも空前の犠牲者のほとんどは、何の武器を持たない一般住民である

非戦闘員である

この爆撃隊司令官であるカーチス・E・ルメイ将軍はその回想記に

私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊したのだ。
日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工場だった。
スズキ家がボルトを作れば、お隣のコンドウはナットを作り、
お向かいのタナカはワッシャを作っているという具合なのだ。
ドイツも工場を分散してきたが、日本の工場の分散ぶりははるかに徹底したもので
東京と名古屋の木と紙で出来た家屋の一軒一軒が、すべて我々を攻撃する
武器の工場になっていたのである。
これをやっつけて、なにが悪い事があろう。
非戦闘員の多数殺傷という点に関して
日本では女も子供までが軍需産業にたずさわっていた

東京を爆撃せよー作戦任務報告書は語るー

三省堂選書

奥住 喜重 ・ 早乙女 勝元

より上記抜粋

東京大空襲の本当の標的は何だったか?

それは工業的および戦略的な諸目標を破壊する事ではなく
すぐに燃える木と紙で出来た小さな家に住む、一般庶民の大量殺傷であった

この本の最後に
3月10日の東京を中心とするB29の都市無差別攻撃は、国際法上、人道上、
許しがたい暴挙であるが、実は日本軍による無差別爆撃の前史があったことを
けっして忘れてはならないのだと思う

早乙女勝元

2001年9月11日 夜

リアルタイムで放映されたテレビの映像に釘付けになった

その時、アメリカは朝だった

イスラム過激派にハイジャックされたといわれる
アメリカン航空機がニューヨーク、センタービル北棟に
続いて南棟に第2機が突っ込んだ

そして第3機がワシントンの国防総省に激突した

これがアメリカ人にはパールハーバーとに見えたらしい

アメリカにとって、自分の国土を攻撃された事が
パールハーバーと同じと考えたのだろう

それに対する報復が日本本土への空襲であり、
広島、長崎への原爆であった。

大衆に対する訴えの巧みな者が国の進路を決定するという国アメリカ

多くは口ではひどいひどいといいながら
実は他人ごととしてテレビを連日連夜あきず見つづけた

2001年3月10日 雑感
「忘れてはならない日 そして人々」

参考書籍
「戦中派不戦日記」山田風太郎 講談社文庫
「東京を爆撃せよ」−作戦任務報告書は語る 奥住喜重・早乙女勝元 三省堂
「東京大空襲19人の証言」有馬寄頼義 講談社
「街道を行く・本所 深川」司馬遼太郎 朝日文芸文庫
「下谷浅草の明治大正昭和V」
「浅草」山田太一 岩波現代文庫
「東京23区」

2002年3月10日 午前零時 記

 

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救世?受難?

古いきものです。

子供の頃
家の箪笥に入っている着物で
何故か惹かれる、好きな着物が何枚かあった
それは実に不思議な色合いで
他の戦後の着物とはまったく違う
どちらかというと野暮くさく
すっきり、しゃっきりした着物ではなかった

にもかかわらず
私はそれらの着物をひどく気に入って
近所の子とお姫様ごっこをする時には
いつもそれらを持ち出していた

それが銘仙であり、お召であった

着たいと思っても、欲しいと願っても
どこにもそういう着物はもう売ってなかった

着たいと云えば
今時そんなのみっともない、おかしいと言われた

大人になって、いつしか着物を着ない生活ウン十年

今や、古着屋さんでも、骨董市でも、オークションでも
あるわ、あるわ、昔着物おおはやり。

銘仙ばかりでなく、戦前の母や伯母、
姉達のこってりした柄の着物
大好きだったそういう着物達が今再び人気

でも、余計な事ながら、気になる事がある

骨董市や古着屋で買った着物
安かったからといって粗末に扱ってない?

古着屋さんなどで試着する時に
平気で床にすってはおっている人
無理に着ようとして、ミリっなんていわせている人
手当たり次第に引っ張り出している人
必ずと云っていいほど見かけます

どうせ、2千円、3千円で買ったものだから・・・

そんな気持がどこかにあるかも

2001年5月6日に書いた雑感・「古いきもの」

今ほど自由に好きな着物が着られる時代ってあっただろうか。

かつて、日本人が着物だけで暮らしている時代はもとより
戦前、いや、戦後だって、
それどころか、つい最近まで
職業、年齢、地位、既婚、未婚、地域、状況、等等
その環境立場に応じた、あるいは親の管理下で
それなりの着物を着ていて
はみ出した柄、色の物を着たならば
目ひき、袖ひき、噂されたはず。

着物好きにとって、今ほど良い時代はない
好きな物を好きに着られるなんて事は
大げさに言えば、有史以来のこと

昭和30年後半から
着物を着ない時代がつい最近まで続いていたけれど

この着物を着なかった親の世代を乗り越えて、
その次の子供達、20代後半から30代の若い人が
着物に興味を持ち、着始めた

とても不思議

何が彼等を動かしたのか

若い人が親の制約を受けずに行動できる時代のせいか

好きだから、着る

楽だから着る

そして、何より楽しく着物を着る

一時代、空白期間があったこと
それがかえって良かったのだろうか?

そう、
ある時不幸に見えても、
後になってみるとそれが幸いしていた事ってある

いけいけどんどんとしてきた事が
後になって取り返しがつかない凶と出る事もある

戦後50年で失ってしまったものを考える時
それがよくわかる

着物はどうだろう

一つの流行は他の何かを追いやる
と、同時に流行しているそのもの自体が
自己崩壊をする事がある

お召は一時期大流行したらしいのだが
銘仙の圧倒的人気により、圧迫され
その銘仙は人気ゆえの粗悪品も大量に出回り
悪貨は良貨のたぐいと
それに加えて、ウールの台頭によって消えた

今、古着、昔着物が流行といわれている
その事が着物全体にどういう影響を及ぼすのか

50年、60年後に吉と出るのか凶となるのか

いつの世でも
商品が売れる時は粗悪品が出回る時でもある
売れるをいい事に手抜きが起こる

一方呉服業界が売らんが為に
昔着物の模造品のような物をつくったり
安くすれば売れるのではないかと
見てくれだけのちゃちな着物を作ったら
着物の将来に大きな禍根を残すと思われる

2002/2/15

新年明けましておめでとうございます。

昨年、2001年という21世紀最初の年は
大きな事件、忌まわしい事件がおこり
これからの世界のあり方、日本のあり方、人としてのあり方
家庭、学校、親、先生、大人、マスコミ、地域のあり方が
問われた非常に重い一年であったと思います。

しかしながら、「うきうききもの」におきましては
思いがけない色々な地域、多くの方に親しんで頂き、
不思議なご縁をありがたくも感謝し
ここに心から御礼申し上げます。

このサイトを開設しましてから
1年4ヶ月が経ちました

ホームページ立ち上げの動機もつい忘れて
うきうき、どきどき、遊びまわってばかり。

そこで、昨年2001年元旦に書きました雑感を
初心に返る意味あいも含めて、ここに再掲させて頂きました。

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