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〜司馬遼太郎・街道をゆく「横浜散歩」より〜
横浜税関の横を通って海に出た。
厳密には陸が続いている。古い埋立地を通り、やがて
中ぐらいに古い時期に埋め立てたかに思える
突き出しの地面に入った。
ここは「新港埠頭」
とよばれている一郭だった。
新港といってもこの埠頭は明治32年の着工で、
途中何度も財政難で工事の空白期があり、大正3年になってやっと完成した。
つまりは大正初年での新で、いまはローマの石造遺跡をみるように古び、
横づけされる船の影もなく、埠頭としても倉庫をしてもほとんど稼動していないのか、
人の気配もない。
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「ここだ」と、Wは前方に、十八世紀の銅版画の世界のような風景を指さした。
風雪に耐えた三階建の赤レンガの倉庫が、遠近法の教材のように遠くまで続いている。
倉庫といっても無愛想な四角の建物でなく、前面、隅角、正面に
それぞれ形象を造作して、全体として一種の威容を感じさせるように設計されている。
赤レンガも、ところどころ油で黒ずみ、雨で変色し、人工のものというより
自然に近くなっていて、その色は絵の具では再現しにくい。
屋根があることが、倉庫であることをやわらげていて
その上の避雷針が、ふと教会であるかのような印象をさえもたせる。
いかにも、ここは流通の文化財的な史跡というにふさわしかった。
どういうわけか、税関の倉庫は、「上屋」とよばれる。
『広辞苑』のそのくだりにも「貨物を留置または貯蔵する税関の倉庫」とある。
(このくだりが雑誌に連載中、
横浜うまれで鎌倉在住の中山寛氏から上屋についてのご教示のハガキをいただいた。
昭和13年、氏が早大在学中、貿易学の上阪教授のゼミナールで、同教授から ”Ware-house <倉庫>が上屋という日本語になった” という話をきいた、といわれる。おそらくそうであろう。) 上記は
司馬遼太郎・街道をゆく「横浜散歩」の一部抜粋。
実は私、知らなかったんです上屋の意味。 横浜でも最近あまり目にしなくなったこの文字「上屋」 Ware-house→上屋 ならば 最初は「ウエヤ」と発音したのだろうか? 現在は「ウワヤ」と言ってるようだけれど??
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ハマでは、4本の柱を立て屋根を載せた簡単な物置のことをウワヤといい、漢字で「上屋」と書きます。
なんとなく日本語と思っていますが、実は歴とした語源が英語の「ハマことば」なのです。
開港当時の横浜港周辺には、貿易が盛んとなり船に積み下ろしをする積荷を一時的にしまっておいて
荷さばきをする簡単な小屋がたくさん出来ました。イジンサンはそれを見て、
ウエヤハウスと呼ぶようになりました。
ハウスが省略され、ついにハマことばでは上屋という新語まで生み出して、
日本語として定着したのです。
伊川公司 「ハマことば」より
神奈川新聞社かなしん出版
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いまではウワヤは、停車場や波止場、工事場などに造る、柱に屋根を付けただけの
吹き抜けの建物の意味で、主として使われています。
地方によってはタマヤともいうお墓の上に置く摸像の屋形のこともいいます。
こうした意味の中にはすでにハマことばの普及する以前から使われていたとも
考えられるものもあります。
従って、ウエヤハウス(Ware-house)と従来のウワヤという言葉が合体して
より広く使われるようになったと考えられます。
現在のカタカナ語もそうですが、外国語は日本語の中に入ってくると
アルファベット表記がカタカナに変わるだけでなく、発音や意味も変わり
ハマことばのような日本語になってしまうことが多いのです。
同じく伊川公司 「ハマことば」より
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これで上屋の謎が解けた!
で
このページの最初に載せた画像、赤レンガ倉庫だけど
正式には
煉瓦一号上屋
煉瓦二号上屋という。
いや、言われていた。
煉瓦壁が150メートルもの長さでつながるこの建物
なんと
関東大震災のあの揺れと猛火に耐えたのだ!!
といっても1号上屋は半分崩れて今の長さになってしまったが
2号上屋は完全に耐えた!当時の姿をそのまま今に伝えている。

手前が一号上屋、奥の二号上屋の半分の長さになってしまった。
後方は一号上屋
設計は正金銀行と同じく、妻木頼黄博士。
面白いことに、
出来上がったのは一号上屋が大正二年で、二号上屋が明治四四年。
二号上屋が一号上屋より先に完成。
にもかかわらず
後からの出来たものを一号上屋と・・・・?
理由は
竣工に関係なく港に近い方から一号、二号と数えるのが当時のハマの慣習だったとか。
おもしろいなぁ!
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〜再び司馬さんの文章に戻る〜
足元は一面に石畳で、とくに倉庫の軒下の石畳が
明治以来、踏まれつづけて歴史の光沢が出ている。

一棟だけでもはるかにつづく「上屋」の列と列のあいだに、
レールが通っている。
近くの桜木町駅(旧横浜停車場)から
かつて貨物列車がやってきて、この上を鉄の車輪が
回転してゆくのだが、いまはどの程度
つかわれているのか。

2002年↑

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残念ながら
現在は司馬さんが行かれたころとはまったく様変わりして
その名称までも
一号館、二号館などと実も蓋も無い呼ばれ方。
こうして言葉は消えてゆく・・・
ただ線路は汽車道として残されているのが救い。

現在
赤レンガ倉庫付近から山下公園方面、貨物線の廃線跡は
山下臨海線プロムナード(好きじゃないなぁこの名称)という
遊歩道となっている↓
←2枚は2002年夏
2004年の現在はすでにこのコスモスの群れはない。
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かつて港から上屋から荷を積んで貨物列車が走った線路。
今人が楽しげに歩く。
もうこれ以上の整備開発は・・・・少なくとも発展させなくていいかと・・
形を整えれば整えるほど横浜らしさが消えてゆく。
かつて飛び交っていたハマことばなんて
今じゃまったく耳にしない。
どの町も同じようになり
土地のにおいがしなくなってはつまらない。
でも
昨日も今日も明日も大事な宝物が消えてゆく
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いかにも港横浜という情緒が感じられる海岸通り 海岸通りには、
昭和ビル、キッコーマンビル、横浜海洋会館、横浜貿易会館と 戦前に建てられた4棟が並び、 古い異国のような雰囲気を漂わせていた。 昭和ビルとキッコーマンビル、横浜海洋会館と横浜貿易会館は デザイン的にも茶色でスクラッチタイル張りと共通 「ふたごビル」とよばれてとても良い感じだった・・・のに キッコーマンビルが取り壊されてしまった(茫然) 歯が一本抜けたように・・・ 本来海岸通りからこの屋根は見えなかったのだけれど キッコウマンビルが壊された為に その裏側にあった東西上屋倉庫の屋根が見えた。 ←東西上屋倉庫の中に入って昭和ビルの裏側を見る ぽっかりと抜けてしまっているところに キッコーマンビルがあった。 |
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