喪の装い

 

大正6年(1917年)7月19日

↑の写真は母の姉が12歳くらいで亡くなった時のもの。

母の姉、私には伯母にあたる

生年月日ははっきりと知らないけれど

明治38年(1905年)くらいの生まれだと思う。

場所は横浜本牧。

仏式でありながら、ゴテゴテ仰々しいい祭壇もなく
生花が花輪であるところがすっきりとハイカラ。

さすが横浜だわ。

こんなに若くしてというか、幼くして亡くなったのは

2400万人の命を奪ったといわれる

スペイン風邪であったらしい。

これより前に祖父は亡くなっている(母の父)

子供を亡くした時の哀しみは例えようもなく全身の力が抜けたと

後に祖母は母に語っている

冠婚葬祭における装い
本には、色々小難しい規則、マナーが書かれているらしいが
この写真を見るとそういうものがなんだかアホくさく思える。

戦前まで人々は各自各家の事情によって
自分達の出来る中での礼儀をもって参列していた。

少なくとも喪服は黒!というわけではなかった。

黄色い矢印の子供が母、当時6才くらい。

ピンクの矢印は母の兄10才くらいか?

喪主を務めたと思われる。

祭壇近くの二人は故人の友人

母とこの友人二人は白無垢を着ている。

母の両隣は知り合いの娘さん

普通のきものを着用し

胸に喪章のみつけている。

 

こういう時の衣裳は

庭に縁台を出して

女中さん達がそれぞれ

袖を縫ったり、身頃を縫ったり

手分けして縫ったそうで

故に

普通のきものを仕立てる時は

数人でバラバラに縫ってはいけないと
いうらしい。

母は後々までこの件に関して非情にうるさく

袖を手がけたらかならず両袖を一緒に
仕上げるようにと言っていた。

袖をバラバラに縫ったり、身頃に付けたり
するのは、
そでない事をすると言って忌み嫌っていた。
(そうでない事と袖無い事をかけているのか?)

 

 

何といっても圧巻はこの人

病人に付いていた看護婦さん

束髪にナースキャップをのせ

白衣に喪章を巻いている。

昔は死に至るような病気でも

入院ってめったにしなかった。

そのかわりに

看護婦さんが寝泊りして

看病にあたるとのは

普通のことだったらしい。

この写真一枚から

二十世紀初頭の色々な事情や
当時の住宅事情も垣間見られ、興味深い。

 

冷房装置などない夏座敷

葦戸が入っている。

部屋の大きさにしては、電灯の傘が小さくかわいい
当時横浜では電灯が一般家庭に普及していたのね

桟に建具屋さんの技も見られる・・・

 

そして近年

私の不祝儀の装いは

喪の装い・夏編  親族として、一般人として
どんな着物まで着て行ける
決まりより、情!