樋口一葉終焉の地

それは

ここ丸山福山町

花ははやく咲て散がたはやかりけり。

あやにくに雨風のみつづきたるに

かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持参

いよいよ転居の事定まる 

家は本郷の丸山福山町とて

阿部邸の山にそひて

ささやかなる池の上にたてたるが有けり

守喜といひしうなぎや

はなれ座敷成しとてさのみふるくあらず

家賃は月三円也 たかけれどもこことさだむ。

明治27年4月・一葉日記より

明治23年から2年10ヶ月母と妹邦子と住んだ

本郷の住居から

吉原近くの下谷区竜泉に9ヶ月余り暮らすも

いよいよ

文学で生きる決意を固め、

明治27年5月1日

本郷丸山福山町4番地へ転居。

この家は

うなぎ屋の離れというか、

隠居所というか、6畳2間と4畳半の3間

庭にはがけの湧水で造られた池があり、

この池を一葉はいたく気に入っていたらしい

近隣は

隣に酒うる家あり。

女子あまたに・・・遊び女に似たり。

常に文書きて給わらとて、わがもとに来る。

ぬしはいるも変わりて、そのかずはかりがたし。

(一葉日記しのぶぐさより)

この地は私娼銘酒屋が建ち並ぶ一角で、

一葉はここで働く女たちを知り、

文の代筆などを頼まれるままにする。

吉原とはまた違った女達を目のあたりにし

「にごりえ」が生まれる。

現在

樋口一葉終焉の地としての記念碑が

文京区西片1丁目、白山通りに面したところにある。

碑は昭和28年、同地地主の笹田誠一氏が
私財を投じて現在の白山通りより一本裏、がけ下に建立された。

後、道路拡幅や社屋の建て替えなどで5回移築され
現在はビルの植え込みの一角にある。

このあたりは昔日の面影は微塵だになし

丸山福山町4番地の一葉の家は

裏側の阿部屋敷の崖に接するように建っていたということなので

碑があるビル並び工事中囲いの間から見えた

後方台地がその当時をしのばせる。

古くは備後福山藩主、阿部氏の

中屋敷であり

旗本の武家地になった。

明治5年、新たに町名をおこすとき、

この辺の台地の呼び名の丸山と

阿部氏の領地の福山とを併せて

丸山福山町とした。

という

阿部氏邸宅があった

崖上の感じがわずかにしのばれる。

但しこの崖の写真は2002年に撮ったものなので

現在は多分ビルが建ってしまい

この台地のさま見る事ができないと思われる。

 

この丸山福山町一葉宅は

文学界の若い青年たちが入れ替わり立ち代り頻繁に訪問するようになる。

平田禿木・馬場孤蝶・戸川秋骨・島崎藤村・川上眉山そして森鴎外・幸田露伴

その中でなんといっても明記したいのは

「斎藤緑雨」の登場!

やがて文学界に

「やみ夜」「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「わかれ道」を発表。

どれも激賞される

その時すでに一葉の身体を病魔がむしばみはじめていた。

明治29年11月23日

一葉はこの家で24歳の短い生涯を閉じる。

 

一葉没後すでに百年を過ぎても

さまざまな形で顕彰されている。

11月23日の命日には「一葉忌」「一葉祭」が文京区と台東区で執り行われ

多くの人が集い、講演などもあるようだ。(私は参加したことはないが・・)

樋口一葉記念館入口

「樋口一葉記念碑」

記念館の向い側公園にある


 ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。

一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。

明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。

今町民一葉を慕ひて碑を建つ。

一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。


 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、

昭和十一年七月のことなりき。

その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、

我国土を空襲の惨に晒す。

昭和二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、

碑も共に溶く。
 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。

愛せらるる事かくの如き、

作家としての面目これに過ぎたるはなからむ。

唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、

文章を次ぐに由なし。僕代って蕪辞を列ね、

その後の事を記す。嗚呼。
       昭和二十四年三月
            菊  池   寛撰
            小島政二郎補並書
                 森田春鶴刻

そして平成16年(2004年)

新五千円札に一葉の肖像が登場。

一葉の死後、不思議なことながら

この丸山福山町の家にはいろいろな人が住むようになる。

しかも一葉の終の棲家とは知らずに、まったくの偶然。

人と人が綾なす摩訶不思議な・・・(続く)