この家には後に森田草平が住んだこともあつた。

そのことは小説「煤煙」の中にも書かれている。

その前には与謝野鐡幹の前夫人林たきのさんも住み、

そこで正富汪洋氏と結婚してゐるし、

小寺菊子さんも森田草平のあとに一時その家を借りてゐたことがあつた。

まだ独身だった時代の小寺菊子さんが住んでゐた明治43年八月末に、

大暴風雨があって、裏の西片町の崖が崩れ、

そのために遂に押しつぶされる結果となった。

小寺菊子さんはその遭難者で九死に一生を得たのだといふ。

それ以来、

永久に記念すべき一葉○居は後形もなくなり、

数数の名作が執筆され、遂に終焉の場所となった丸山福山町四番地の一角は

年と共に人々からも忘れられて

戦争中の強制疎開でいよいよ形を変えてしまった。

それが明るみに出ることとなって

その土地の所有者である笹田誠一さんの義挙で、

樋口一葉碑が建ったのは昭和27年夏のことである。

かつての居住者正富汪洋氏や

一葉の甥にあたる樋口悦氏などをまじへてやうやく探り当てた場所は

前記の日記を一葉筆跡からそのまま拡大して刻んだ碑からは

同番地ながらやや離れる結果ともなったが、

その事は標識に書くことによって明らかにした。

碑の裏側に刻んだ説明文は岡田八千代女史の起草で

その他は平塚らいてう女史である。

一葉全集月報第五号

昭和29年6月第5回配本・付録

一葉

丸山福山町(一葉のおもかげ 五)

野田宇太郎

(○は印刷が悪く判読不明)

 

上記が載っていた付録は

「雑感」2002年10月7日 に掲載した全集に入っていたもので

  

一葉の日記の中に出てくる人々や

実際一葉に会った方の寄稿がたくさん載っている。

実のところ

私にとっては全集よりもこちらの方が宝物。

右端の画像に映っている写真は「花柳章太郎」さん。

〜一葉女史諸作のヒロインを勤めて〜

という表題で一文を寄せている。

写真は昭和14年4月、明治座にて一葉を演じた時のもの。

それで

ここでの要点は

この家をめぐって綾なす人間模様の不思議さ。

一葉亡き後

竹久夢二と竹馬の友であったという 正富汪洋氏が友達とこの家に下宿(明治35年頃か)

そこには夫与謝野鐡幹晶子に奪われた林滝野がやはり友達と下宿していて

出あった正富汪洋と林滝野は相愛となり結婚している。

鐡幹晶子に奪われた滝野は子供を実家に預け本郷の裁縫学校に通っていたのだ。

汪洋の父はこの結婚に大反対で仕送りは途絶えたという。

そんな状況下で滝野は勤めに出て生活を支え

89歳と87歳、共白髪になるまで添い遂げた。

 

正富汪洋林滝野が一緒になってこの家を出た後

明治36年末

代わって下宿したのが夏目漱石の弟子である森田草平

森田草平は一葉終焉の家であったとは知らずに転居して来るのであるが

馬場孤蝶にそこは一葉の住んでいた家だと知らされ

ひどく驚き喜ぶ。

そしてこの家で一葉を偲ぶ会をしようではないかと

明治37年「一葉会」を開く。

この時の写真が樋口一葉関係の書籍にはよく載っている有名なもので

一葉の妹邦子が長男を抱いている隣に当時帝大の教授であった上田 敏

親しく出入りしていた馬場孤蝶

小山内薫夫妻など

その中に与謝野鐡幹、与謝野晶子もいる。

(正富汪洋と林滝野が出逢った家に来た二人の心中やいかに?)

その一方

故郷に妻子がありながら森田草平は

出戻っていたこの下宿屋の娘と深い仲になる。

その上、時おなじ頃若き平塚らいてふとも出会い

明治41年

森田草平平塚らいてふは雪の塩原心中未遂事件をおこす。

未遂に終わった情死事件後、文壇から抹殺されそうになったが

情死未遂事件の顛末を小説に書くように

師漱石の奨めに従って「煤煙」を書く。

〜森田草平・「煤煙」より〜

小さい池の水が澄んで、底に映る金魚の影も見える。

昔此家に棲んだ一葉女史が

月の夜に硯を投げたと日記に書いた池で

垣根の下に二三本かたまって枯れた芭蕉も矢張其の頃から有るという。

要吉が永く此家に居ついたのも、一つは其様な事が心を惹いたからで、

何日も神戸が来て、「君は一葉さんの家に居る間に、

何か大作をしたら好からう」と言つた。

それは何日出来るといふ宛もないが、

此処に住むのは随分久しい。

今朝出た丸山の家も程遠くない。

あの家にも六年近く棲んだ。

他所(よそ)ながらもう一度見て行きたいやうにも思はれる。が、

それと心を決し兼ねてゐる間に、又大学の前迄来た。

 

 

 

一葉の家間取り

一葉会折りに写した写真は@の位置で写されている。

溝を板橋で渡り、すぐ右がわにある家が

「にごりえ」のもでるになった銘酒屋だという。

家と家との間を抜けると一葉の家がある。

後には高台の崖Bを控えたこの家の横には瓢箪池があり

玄関を入ると廊下が通って

右側に六畳が二間続き

玄関に近い方の六畳間が一葉の部屋。

左側に台所と四畳半が一間という間取り。

平塚らいてふはこの事件後

明治44年、「青鞜」を創刊

樋口一葉その生涯・森まゆみによると

「樋口一葉論」を書いて一葉を日本の古い女と評した。という。

(私は残念ながら読んでいない)

しかし

昭和28年、この地に碑が建つにあたって

碑文の筆をとったのは平塚らいてふであった。

その心境の変化は如何に?

 

森田草平は煤煙を書き上げた後

再び丸山福山町4番地の家に戻る。

 

この家は上で記したように(下線のある部分)

明治43年8月の大雨で裏の崖が崩れ倒壊

その時に住んでいたのは小説家の小寺菊子であったというのが今までの定説。

最新のものでは

平成15年度特別展・樋口一葉その生涯(文京ふるさと歴史館発行)

その中で森まゆみさんが

この家は明治43年8月の暴風雨で裏の崖が崩れ、その時そこに住んで

九死に一生を得たのは

27才の作家小寺菊子である。と書き記している。

 

ところが

平成16年度特別展・文京ゆかりの文学者たち(文京ふるさと歴史館発行)で

今回の展覧会の調査で

明治43年の崖崩れの際、その家に住んでいたのは小寺菊子ではなく

森田草平であるということが、草平や漱石の著書から再確認されました。

お詫びしてここに訂正いたします。

なお、小寺菊子は同じ時、愛宕山下(港区)で、

住んでいた家が崖崩れで倒壊するという経験をしています。

この訂正文が掲載。

やはり野田宇太郎氏の節をそのまま受け入れていたらしい。

私も長い間ずーーーと思い込んでいたことが

2004年11月、40年ぶりに間違っていたと教えられた。

いやー生きていてよかった。

 

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